2010年01月18日

あの日から15年

15年前の1月17日のことを 私は あまり 語りたがらなかった。

自分より はるかに悲しい思いをした人が大勢いるのに
私がその日を語るのは・・・と思っていたし、
あの日
自分より不幸な人を見ることでしか 幸せを感じられなかった自分が
今でも 一番 悲しいことだからだ・・・。

今日、通勤の車の中で聞くラジオからは あの日の事が 数多く 語られ
「風化させてはいけない」と 告げていた。

忘れてはいけない。語り継がなくてはいけない。
あの日から15年・・・
当時、小学校1年生だった長男と 幼稚園の年長さんだった次男。

小学生になったのだから ひとりで寝られるようにと システムベッドを買った。
下に整理タンスや 本棚が入り、上がベッドになっている 組み立て式のベッドだ。
長男は 一人で眠れたけれど、年長さんだった次男は まだ 一人では眠れず
お父さんと一緒に眠っていた。
私は、次男が眠らないベッドで 眠っていた。

ベッドが 揺すられる感じがした。
誰かが 起こそうと思って ベッドを揺らしているのかと思った。
う〜ん?と うつろに目が覚めたとき
その揺れは とてつもない激しさになっていった。
ベッドは東西方向に 激しく揺すられる。(私は頭を西にして眠っていた)
組み立てをした時の ボルトの太さが頭をよぎった。
「このままでは ベッドが壊れるぅ〜〜」と 恐怖に駆られながらも
体は硬直し、声も出ない。
その時の揺れを 長男は
「ゴジラが来たのかと思った」と 言っていた。


揺れが止まった・・・真っ暗で 無音の時が 訪れた。
あの時の暗闇は それまで経験したことのない闇だった。

我を取り戻した瞬間、ベッドから飛び降り 長男の元に駆け寄った。
半べそをかいている長男に
「大丈夫!だいじょうぶ!」と言いながら 抱き寄せた。

右手一本で 長男を抱きかかえ、
倒れ掛かけている整理タンス(150センチくらい)を左手一本で立て直し
部屋を出た・・・出ようとした。

「こっちに来たらあかん」と パパが 叫んだ。
照明が割れて ガラスの破片が散らばっていたのだ。

次男は パパに抱かれて無事だと分かった私は
スリッパを探し なんとか リビングまで行くことが出来た。

4人がリビングに揃ったところで
「おばあちゃんは?」 と 叫んだ。
パパは どうやって行ったのか? 散乱した物の上を這い上がり
2階にいるおばあちゃんを連れてきた。

真っ暗だった。静まり返っていた。
たぶん、とても寒かったはずなのに 寒さを覚えていない。


空が白みはじめた。夜が明けた。

外に出た。

外に出て、お向かいの家を見た時
「うわぁーーー ひどい!」と思った。
思いながら 自分の家を振り返った。
愕然とした。

我が家は 前年の12月27日に リフォームが完成したばかりだったのに
外壁が崩れ落ちているのが 目に入った。
あのリフォームの時 
ムリな増改築をしていたこの家の梁は 宙ぶらりになっていて
「大きな地震でもきたら ひとたまりもないですよぉ」と言われていたのを思い出した。
リフォームをしていたお陰で 家は 原形をとどめていた。


人々が ゾンビのように歩いていた。
私は おばあちゃんに子供たちを預け 会館まで行ってみた。
アスファルトの地面は地割れし、水道管が破裂し、ガスの匂いが充満していた。
途中の家が 廃家のごとくになっていた。


少し落ち着いてくると、私は 翌日のことばかり気になってきた。
18日は私の誕生日で、友人達が我が家に来て ホームパーティーをする予定だった。
こんなぐちゃぐちゃな家を、どうやって掃除をしようとか、
明日の料理の買い物はどうしようとか、
子供たち 学校に行かなくていいの?とかの心配ばかりをして
まったく現実が見えていない状態だった。


その時パパは、自転車に乗って 外に出て行っていた。
こんな時に どこに行ったのよ・・・と腹を立てていると
牛乳とパンを抱えて帰ってきた。
そういえば、家を出て行く時に
「何が欲しい?」と言われて
「今日、買い物に行くつもりだったから 冷蔵庫の中が 空っぽやねん」
「なんでもいいから、食べ物・・・あ、牛乳が欲しい」と答えたのを思い出した。
これは、後に分かったことで
パパは 店が崩れ、店内がぐちゃぐちゃになっているお店の片付けを手伝い
牛乳とパンを調達してくれたようだ。

一旦 帰ってきたかと思ったパパは 再び 自転車に乗って 出かけてしまった。
どこから手を付けたらいいのか分からない室内。
水が出ないので、汚れ物を洗えない。
電気がないので、掃除機が使えない。
こんな時に どこに行ったのよ!と思っていたら
これも 後日 分かったことだけど
実家を離れている同級生の家に行き、親兄弟の無事を確認に行っていたらしい。


どれくらいの時間が経ってからだったろうか・・・
車に搭載しているテレビを見た。
そこには 高速道路が倒れている映像が映っていた。
電車が横転している映像が映っていた。
この時になって初めて 被害があったのは ここだけじゃないと知った。
日本全土が全滅しているのかもしれないという 恐怖が走った。
今なら んなあほなぁ〜と思うけれど、あの時は ほんとに そう思ったのだ。


夕方近くになってからだと思う。
被害の無かった所に住む叔父が、何時間もかけて 単車で来てくれた。
その時の叔父の青ざめた顔を忘れない。
「大丈夫やったか」・・・と安堵した叔父の言葉が重かった。
叔父は 来る途中の倒壊したビルや家屋を見て
もしかしたら・・・と 不安で不安で たまらなかったのだそうだ。

車で1時間くらいの所からも 足の不自由な叔父が 単車に乗って来てくれた。
叔父達は 私たちの無事を確認すると すぐさま引き返し、
食料と ブルーシートを持って来てくれた。
寒い中、単車に乗って、何時間もかけて 2往復してくれたのだ。
お陰で、我が家は どこよりも先に ブルーシートの屋根になった。



・・・つづく




どうやって室内を片付けたのかは覚えていない。
食器は ほとんど割れていた。
テレビも元の位置になかったし、
天井まであるタンスが東西に50センチも動いていた。
そのタンスは 今も動かせなくて、そのままだ。

余震が続いた。
余震がある度に 心臓が破裂しそうな恐怖が走った。
そのうちに、余震が来るのを予知できるようになった。
ごーーという地鳴りを感じ、来る!というのが分かるようになった。
それくらい、神経が研ぎ澄まされていたのだろう。
震度が、分かるようになった。
今のは 震度3くらい・・・と、分かるようになった。

我が家は 比較的被害が少なかったので
近所の人が 夜になるとやって来て
リビングの真ん中に ダイニングテーブルを置き
その下に 隠れられるようにして眠った。

私たちは 子供が小さかったので 車の中で眠った。
どこにも行かないと言うおばあちゃんだけを残して、親戚の家に非難することは出来なかった。
何よりも、家族揃っていることが 一番 安心できたからだ。

電気は 一番先に開通した。
水は 歩いて5分くらいの所に貯水池があり、そこへ汲みに行った。
ポリタンクなんて無いので、ペットボトルやバケツで汲んだ。
ガスは、カセットコンロを利用した。
トイレは、風呂の残り湯が役に立った。
お風呂は、熱帯魚の水温を上げる器具を使って、沸かした事もある。
ある時、大阪市内の銭湯に行くと
「被災者の方ですか?」と尋ねられ、そうだと答えると無料にしてくれた。

食料には困らなかった。
夜中に車を走らせ、大阪市内に買い出しに行った。
道路はひび割れ、塀が倒れて 通行できない道路も多かったけれど
通れない道路には 畳が置かれ、その上を通った。
道に畳が敷いてあるなんて、日本で一番贅沢な道やと笑った。

救援物資も 十分にあった。
ある時、山○組の組員が バナナを配ってくれた。
一目でソレと分かるような人が
「頑張ってください」と言って、バナナを置いていった。
今思うと、クスッと可笑しくなる。

地震後、一番食べたい物は さばの塩焼きだった(笑)


我が家の被害は 半壊と認定された。
家の基礎と建物部が数センチも ずれていた。
私たちは 基礎と建物の間に 石を詰め、セメントで固めた。
意味のない事だけど、そんな事しか出来なかった。
小雪が舞う中、石を詰めていた。
セメントを練る水が無くて、雨水を利用した。
そんな事をしても仕方がないのに、黙々と作業した。

国が 被災者への救援・援助を叫んでいる頃
リフォームローンを借りた住宅金融公庫から電話があった。
「家は大丈夫ですか?」と尋ねられた。
心配してくれてるんだ〜と 嬉しくなった。
「大丈夫です」と答えると
「立ってますか?」「ほんとうに大丈夫ですか?」と問われる。
不思議に思って、
「どうしてですか?」と尋ねると
家を担保にローンを組んだので、家が壊れて担保能力が無くなっていたら
即刻、全額返済しなければいけないからだと 教えられた。
心配しているのは、私たちのことではなく
担保能力があるかどうかだなんて・・・情けなかった。

我が家は、二度のリフォームで 二重のローンを抱えることになった。
周囲の家が 新築する中で
古いたたずまいの家は 少なくなった。
1度目のリフォームをしていなければ、新築できたのになぁと思ったけれど、
あのリフォームをしていなかったら、完全に誰かが犠牲者になっていただろう。
命拾いをしたのだと思うことにした。
事実、家族はみな、ケガも無く、無事だったのだから・・・。



学校が始まったのは どれくらい経ってからだったろう・・・
地震後、初めて行われた授業参観で 教室に入ったとき
児童達の匂いが・・・臭かった。
みんな、自由に お風呂に入れないからだ。
その時の刹那さが 忘れられない。


もっともっと、忘れてはいけない事があったのだけど、
私の中で すでに 風化が始まっている。
忘れてはいけない。語り継がなければいけない。
そんな思いで、書いてみました。

ニックネーム Spaママ at 22:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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